稲葉監督の幼少期②

稲葉監督の高校、大学はどうやったのか??


中京高校(現・中京大中京高校)3年夏の愛知大会決勝で、そのイチローのいた愛工大名電高校に雨天再試合の結果,5-3で敗れた。卒業後は法政大学に進んだ。法政大では1年春から試合に出ており、先発出場時は中軸を打つこともあった。しかし、3学年上に当時四番を打つ鈴木秀範一塁手がおり、また、故障を抱えていたこともあり、一塁手に定着したのは3年春(1993年)からであった。特に2年春(1992年)は左翼手としての先発起用も検討されていた[1]が、故障のため不出場に終わった。法政大はこの1992年春のシーズンでは、最終カードである明治大学との直接対決で勝ち点を挙げた方が優勝という展開に持ち込んでおり、それだけに法政大のファンは稲葉の欠場を残念がった(結局、明治大が2勝1敗で法政大を下して完全優勝を果たした)。1993年(3年時)の春から一塁手としてレギュラーに定着。同年の第22回日米大学野球の代表に選ばれた。4年時には四番打者として法政大を秋季リーグ戦優勝に導いた。東京六大学野球の春季リーグでのベストナイン、第23回日米大学野球の代表にも選ばれた。リーグ通算成績は86試合出場、307打数86安打、打率.280、本塁打6、打点50であった。


好成績を叩き出してますねーー(o^^o)

その後はスンナリとプロにいったのか、?

乞うご期待!!